戦う女

24歳の脳内

24歳って大人?

3ヶ月前に24歳になった。

高校生くらいの頃、24歳にもなれば大人になれると思っていた。

 

幼い頃、父に「40歳ってどんな感じ?」と無邪気に尋ねたことがある。

「40歳らしく振舞わなきゃと思うだけで中身は20歳くらいで止まってるよ。」と返されえーそんなもんなの?とがっかりしたのを覚えている。

今になり、父の言葉の意味が痛いほど理解出来る。

 

思えば昔から大人、特に年上の女性に対する憧れがあった。

幼稚園生の頃はランドセルを背負う小学生がヤケに大人に見えたし、小学生になれば制服を自分好みにアレンジして着こなす中高生を羨望の眼差しで見ていた。

 

20歳を超えた頃、実年齢と「大人であること」は別物であることを知った。

それは大学内のミスコンに出場したり読者モデルをする素人とプロの間くらいに位置するいわゆる”半プロ”の女の子を目にした頃くらいのことだ。

 

私の思う「大人」は、確固たるアイデンティティを確立していて洗練された人といったイメージだ。ファッション、身のこなし、恋人、街並み、生活の全てが自身に馴染んでいていてこなれているのだ。

大学内やSNSで見かける半プロの女の子たちはみんなそうだった。

 

彼女たちは自分に関わる全ての物をわざとらしさもなく取捨選択する。自己プロデュース力に長けていてキャラクターに一貫性があるのだ。

きっと彼女たちの多くは自分自身というよりも『自分のなりたい像』が確立されているのだと同世代になった今思う。しかしそれも立派なアイデンティティだ。

 

こういう大人びた同世代の女の子たちを見ると

「ねえねえそれ一体どこでそれを見つけたの?!」

と質問攻めしたいような気持ちに駆られる。同時にそんな出来あがった女の子たちと自分を比較し、まだ何者でもない自分を見つめ嫌悪が込み上げてくる。何ならこれまでの24年間自分の人生をサボってきてしまったような気さえしてくる。

実際のところそうなのだろう。何を隠そう私は超が付くほどの出不精かつ面倒くさがりだ。

 

私が住む東京には多種多様な人間が住んでいるしアンテナを張り巡らせることさえしていれば色んな世界を覗くことができる。きっと私はその辺の行動をサボってきてしまったのだ。

「自分はこういうのが好き」「自分はこうなりたい」というアイデンティティは様々な価値観に触れる中で築かれていくものであり、家でひとり寝っ転がり自分の属性と近い人のSNSを見ているだけでは芽生えない。

 

面倒くさがりな人間というものは本当にどこまでも面倒くさがる。

こんな自分でも、数少ない行動やネットサーフィンの最中に好きなアーティストや世界観に遭遇することがあった。

でもそれはそれ、これはこれといった具合でそこに自分を投影することはなかった。完全なる消費者、オタク側なのだ。

小さな好きと小さな憧れをずるずると引きづりここまできてしまった。

アイデンティティというものは学校教育では磨かれないし「大人になる」とはただ歳を重ねることではない。

 

25歳になる時にはどうなっていたい?

30歳になる頃は?

どんなヘアスタイルやメイク?

ファッションやバックは?

恋人は?

どんな仕事をしていたい?

今の私には何も明確に答えられない。

 

いくつになったら自分が思い描く大人になれるかも分からないし、もしかしたらそんなものは幻想でいつまでも叶わないことなのかもしれない。

それでも「毎日そこそこ楽しいし、このままでいっか」とは思うことができない諦めの悪い自分にいつかしっくりくるものを与えてやりたいと思う。

 だから私は自信の持てないコーディネートで渋々家を出、下手な言葉で人に話しかける。「これ、私に合うかも」とふっと笑みがこぼれるような瞬間を求めて明日も外へ出かけていきたい。